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食道楽

 

 

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ごはんが美味しくて仕方がなく、なんでも食べたがり、朝ごはんの後には昼ごはん、昼ごはんの後には晩ごはん、晩ごはんの後は朝ごはんを夢想する程である。

 

森茉莉は著書『紅茶と薔薇の日々』の「ベッドの上の料理づくり」で次のように述べている。

 

世間によくある、いわゆる食道楽、というのではなくても、食道楽の人はいる。食べるのがすきな人である。いつも何か食べたがっている人である。一五、六歳の成長期が遠い過去になっているのに、絶えず何かおいしいものを頭に想い浮かべては、食べたがっている人である。

(省略)

ほんとうのことをいうと、いわゆる食道楽と名のつく人よりも、ただ健康な異を持っていて、すきな食べ物が多く、それを食べるときにはなんともいえなく楽しく、仕事のあいまには、自分で何かこしらえたり、一人で、あるいは親しい友達と誘い合って何か好きなものを食べに出かけ、大いにしゃべりつつ食べ、食べつつしゃべる、そういう人が幸福である。そういう人のほうが真性の――真性のではコレラチフスみたいだが――食道楽の人物というべきである。

 

 

 

実家で暮らしていたころは何を食べても味気なく、食に対する執着がなかったのだが、自立してからは何でも美味しく食べている。

多分、好きな物を好きなだけ食べられるようになり、栄養を意識した食事を作っているのも要因としてあると思う。

 

実家ではあまり野菜が食卓に上らず、味噌汁も決まった具しか入らず、パターン化され、”食事”というよりは”餌”というような印象であった。

餌のような料理であろうと食べれば栄養にはなる。

しかし、食べるという行為、美味しいと思う感覚はただ単に養分を得るだけではなく、見た目や香り、音、味、環境やコミュニケーションを含んだ複合的なものなのだ。

 

何処で誰とどんな状況で食べるかによって、同じ料理でも美味しさが変わる。

 

例えば、親しい友人と食べる時と意中の人と食べる時では味の感じ方が違うだろう。

親しい友とはリラックスしてよく話し、よく笑い、楽しい気持ちで食事をし「美味しかった」と気持ちよく思えるだろう。

意中の人間と食事を共にすると、緊張して味なんか気にしている余裕はなく、食べたは食べたけれど「はて、一体何を食べたのやら?」と料理の印象はなくなってしまう。

 

同じ食材でも調理の仕方で変わる。

新玉ねぎをスライスし、水にさらしたサラダの食感は、シャキシャキと瑞々しい美味しさがある。くたくたになるまで火を通したオニオンスープはトロリとした甘みがうまい。どちらも同じ玉ねぎであるが、食べかたが違う事で感じる美味しさが異なる。

 

同じ食材調理法でもどういう器に盛られ、彩りの印象によっても変わる。

つるりとした表面の食器に盛られるとモダンで垢抜けている。どっしりとして土の質感が出ている器に盛られると素朴で食材の力強さを感じる。

 

誰がどういう想いで作ってくれたかによっても変わる。

機械的に投げやりに作られた料理は、例え食材に凝っていても冷え冷えとした薄っぺらい味になる。均一な美味しさはあるが深みが足りない感じを持つ。

食べる人を想って作られた料理は、食材が日常的なものであっても特別な美味しさを持つ。「ああ、あれは美味しかったなあ」と思い返すのは、親や子供など大切にしている人が気遣いながら作ってくれた普段着のご飯が多い。

 

今、私が毎日ご飯を美味しいと思えているのは、心から料理をする事食べる事を楽しんでおり、常にウキウキをした気持ちで作って食べているからなのだと思う。

いずれは尊敬する森茉莉先生と同等、あるいはそれを越える食道楽になってみたいものだ。