しっかりしてないブログ

しっかりしない、がんばらない

お久しぶり

 

久しぶりにブログを書く。
パスワードを忘れてしまったんじゃないかと心配していたが、どうにか覚えていたようだ。よかった。

 

なんやかんやで訓練校を出てどうにか興味のある業界に入ったが、なかなか仕事の内容が旧型ですっかり困ってしまい、入って半年しか経っていないが、転職しようか迷う日々が続いている。

 

まあ、いいかそんなこと。聞いたってきっと楽しくないだろうし。

 

今日はちょっと、私の部屋の好きな所を話そう。
だって、きっと、そっちのほうが聞いていて楽しいでしょう?

 

 

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これが私の部屋。今座ってブログを書いている机周り。少し前の写真だから冬用の物がかけてあったり、本がごっちゃごちゃになっているけれど、整理した今もあんまり変わらない。

 

黒のスチールラックにどっさり本を詰め込んで、海で拾った流木をハンガー掛けにしている。無茶苦茶だし、丁寧な暮らしとは程遠いが、案外、気に入ってる。

 

少し困る所があるとしたら流木のハンガーラックが時々ずれて落ちてしまう所かな。
次に海に行ったら、もうちょっと長い流木を拾ってこようと思っている。

 

1万円以下の値段で買った赤い椅子も気に入ってる。座面が少し硬い気がするから、近々クッションでも買ってこなくちゃ駄目だなあ。

 

あ、そういえばこの椅子。脚の部分が木製だったんだ。
部屋の雰囲気に合わないからアイアンブラックのペンキで塗ったんだ。
これも、すごく気に入ってる。


派手だったかなと思う時もあるけれど、部屋に入ってきたときに、この赤い椅子が目に入ると「やっぱり可愛いな。買ってよかったな」と思うからいい買い物だったんだろう。

 

ガラス製のランプシェードも気に入ってる。これ、確かアマゾンで2,000円ぐらいで買ったんだっけな。少し青緑色がかかっていて、涼しげでレトロなデザインが好きなんだ。

 

狭いし、お金も全然かけてないけれど、好きなものを詰め込んだ部屋は心地がいい。
一気にアレもコレもとはいかないけれど、少しずつゆっくりと自分の好きな部屋にしていきたい。

貴方に会いたい。だからそれまでは

 

1週間ほどすっかり狼狽して、情報を見漁り、

「これからの人間社会はどうあるべきか」なんて事を考え、

ミニマリズムやパーマカルチャーやダウンシフト的な生き方をひたすら模索していたが、どう考えたって私1人では理解ができる問題ではないと思い、やめる事にした。

 

私ができることは私の人生をどうしたいかぐらいしか出来る範囲がない。

どうせ死ぬならどう生きたいか考えるしかない、という結論に至った。

 

何故、私が人間全体の問題を考える様になったんだろうと疑問を持った時、

自分は大きなことを成さないと生きてはいけない、愛されてはいけないという

思い込みがあったと思う。

よくよく考えて見れば、私の周りの人間は、私が惨めな状態であろうと傍に居てくれていた。別に大きな事を成さなくても、存在を肯定してくれる人間はいるのである。

それで、十分ではないか。

 

そう、十分だ。

 

この自粛が終わったら、人に会いに行こう。

そして、その人のいい所をいっぱい伝えてあげよう。

貴方がそのままの姿でこの世界で生きていてもいいと思えるように。

だからそれまでは生きていよう。

 

ほんとうはちょっと怖い

 

毎日いやんなニュースが多くて、ただでさえ心配性なのに、

もう、動揺しすぎて困ってしまう。

 

動揺しすぎて困るのに、毎日

「どうか、どうか、少しでも先の明るいニュースを!」と考えて深堀しすぎて、

余計に心配事を増やしてしまっている。

 

うーん、駄目だね。負のスパイラル。

 

Twitterでは頑張ろう!頑張ろう!って言っているけれど、

悪い想像力が頭の中でいっぱいになっていて、手がつかなくなっている。

 

あまりにも予測がつかなさすぎて、毎回、酷い予想で全てが終わってしまう。

明るい考え方をしよう、しようと考えても、自分の国の動きが余りにも酷くて、

信頼もできず、怖くなってしまうのだ。

 

毎日泣きたいし、すっごく怖い。何もかもが。

 

でも、こんな時でもスカイプSNSで繋がってくれている人がいて、

精神的にはすごく助かっている。

 

前の職場の人間も、LINEでメッセージを送れば答えてくれる。

 

「また、ご飯行きましょう」

「美味しい物食べたくなったら連絡してね」

 

と、言ってくれる人がいる。

どうにかまだ私にも繋がりがあると思うと嬉しくて、つい、泣いてしまう。

ちゃんと家から出てよかった。

私の周りに、弱くてもちゃんと人との繋がりができて、よかった。

 

3年以上前の私!

今の私はね、いろんな人に支えられながら生きてるよ。

ちょっと危なっかしい生き方だけど、どうにか生きてるよ。

だから、今の私は頑張って生きるね。

 

人と人との間で楽しく、和やかに生きていけるように。

それが私の望む生き方。

とんでもない事になってきた

 

ふと、別の仕事をしたいと思い前職をやめると、

コロナウィルスの大流行で雇用が死にかけており、途方にくれている。

 

失業保険と訓練校の通学で11月までは国からのお金で生きていけるのだけれど、

はてさて、11月で今よりマシな状況になっているかは分からない。

現政府の動きを見ていると「なんだか、無理そうだな」という気がする。

 

前から在宅でできる職種に興味を持っていたし、

組織に所属するのも苦手で、

人の多い職場にいるのも感覚過敏故に大変精神を使っていたので、

「在宅でできそうなスキルを獲得するのにいい機会」

と捉えておいた方がいいのかもしれないと思い始めた。

 

本当は、4月、5月は実家に居た時はできなかった旅行というものを、

のらくらとして世界を見ようと思っていたのに残念なことだ。

 

世界を見ると言っても、

自分探しをする

とか

終の棲家を見つける

とか

壮大な理由ではなく、ただ単に人が生活している姿を見たかっただけである。

 

日本の社会を見ていると豊かであるのに、閉塞感があり幸福には見えない。

人が幸福に生きる為にはどういうことが必要なのか、

これから世界はどのように轅を切っていった方がいいのか、

という事を自分で肌で感じて考えたかったのである。

 

私は今までインターネットや読書という対人ではなく対文字でしか思考したことがなく、対人、対物による思考ということをする機会が滅多になかった。

 

外に出て人と出会い、物を見て、考えたかったのである。

自分がどのように生きるか

どのように社会とかかわるか

読書とネットによる思考が適正であるか否か

自分の目で見て考えて動きたかったのである。

 

残念ながらコロナウィルスの大流行により、今回は目的を達せられそうにない。

だから今は、いずれ外へ出る日が来た時に、職場や職業に捕らわれず、ふらふらと出ていけるような仕事を得る準備だと考えておいた方がいい。

 

そうすれば希望はある。

希望があれば生きていける。

『夜と霧』が教えてくれたように。

 

その、第一歩としてライターをしてみようと考えている。

ただ、雇用保険の関係で賃金が発生するものはできない。

趣味と実用(というかポートレイト?)が一緒になったものをするのだ。

 

コロナウィルスの流行でカフェ等の飲食店が大打撃を受けている。

このままでは、コロナの流行が終わったとしても行きたいカフェがなくなってしまっている可能性がある。

 

それはままままま、まずい!!!!!!

 

ので、通販やオンラインショップでコーヒー豆の販売をしている

カフェや焙煎所の豆を購入してnoteで感想を書いてみることにした。

 

コロナウィルスの影響で家でコーヒーを楽しむ流れもある。

なので、このnoteによってカフェや焙煎所とお客さんが繋がる仕組みを作れればいい。

多分、1人で色んなコーヒーを飲むのは限界があるので、

新しいタグを作って多くの人間に協力してもらおう。

 

流行が終わった暁には、外に出て、行きたいカフェへいくのだ。

その為には生き残ってもらわないと困る。

 

今日、最初の第一歩として前に行った事のあるカフェのドリップセットを購入した。

明日か明後日には届くと思うので、どう感想を書こうかワクワクと考えながら、

コーヒー関係の本を開いて読んでいる。

食道楽

 

 

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ごはんが美味しくて仕方がなく、なんでも食べたがり、朝ごはんの後には昼ごはん、昼ごはんの後には晩ごはん、晩ごはんの後は朝ごはんを夢想する程である。

 

森茉莉は著書『紅茶と薔薇の日々』の「ベッドの上の料理づくり」で次のように述べている。

 

世間によくある、いわゆる食道楽、というのではなくても、食道楽の人はいる。食べるのがすきな人である。いつも何か食べたがっている人である。一五、六歳の成長期が遠い過去になっているのに、絶えず何かおいしいものを頭に想い浮かべては、食べたがっている人である。

(省略)

ほんとうのことをいうと、いわゆる食道楽と名のつく人よりも、ただ健康な異を持っていて、すきな食べ物が多く、それを食べるときにはなんともいえなく楽しく、仕事のあいまには、自分で何かこしらえたり、一人で、あるいは親しい友達と誘い合って何か好きなものを食べに出かけ、大いにしゃべりつつ食べ、食べつつしゃべる、そういう人が幸福である。そういう人のほうが真性の――真性のではコレラチフスみたいだが――食道楽の人物というべきである。

 

 

 

実家で暮らしていたころは何を食べても味気なく、食に対する執着がなかったのだが、自立してからは何でも美味しく食べている。

多分、好きな物を好きなだけ食べられるようになり、栄養を意識した食事を作っているのも要因としてあると思う。

 

実家ではあまり野菜が食卓に上らず、味噌汁も決まった具しか入らず、パターン化され、”食事”というよりは”餌”というような印象であった。

餌のような料理であろうと食べれば栄養にはなる。

しかし、食べるという行為、美味しいと思う感覚はただ単に養分を得るだけではなく、見た目や香り、音、味、環境やコミュニケーションを含んだ複合的なものなのだ。

 

何処で誰とどんな状況で食べるかによって、同じ料理でも美味しさが変わる。

 

例えば、親しい友人と食べる時と意中の人と食べる時では味の感じ方が違うだろう。

親しい友とはリラックスしてよく話し、よく笑い、楽しい気持ちで食事をし「美味しかった」と気持ちよく思えるだろう。

意中の人間と食事を共にすると、緊張して味なんか気にしている余裕はなく、食べたは食べたけれど「はて、一体何を食べたのやら?」と料理の印象はなくなってしまう。

 

同じ食材でも調理の仕方で変わる。

新玉ねぎをスライスし、水にさらしたサラダの食感は、シャキシャキと瑞々しい美味しさがある。くたくたになるまで火を通したオニオンスープはトロリとした甘みがうまい。どちらも同じ玉ねぎであるが、食べかたが違う事で感じる美味しさが異なる。

 

同じ食材調理法でもどういう器に盛られ、彩りの印象によっても変わる。

つるりとした表面の食器に盛られるとモダンで垢抜けている。どっしりとして土の質感が出ている器に盛られると素朴で食材の力強さを感じる。

 

誰がどういう想いで作ってくれたかによっても変わる。

機械的に投げやりに作られた料理は、例え食材に凝っていても冷え冷えとした薄っぺらい味になる。均一な美味しさはあるが深みが足りない感じを持つ。

食べる人を想って作られた料理は、食材が日常的なものであっても特別な美味しさを持つ。「ああ、あれは美味しかったなあ」と思い返すのは、親や子供など大切にしている人が気遣いながら作ってくれた普段着のご飯が多い。

 

今、私が毎日ご飯を美味しいと思えているのは、心から料理をする事食べる事を楽しんでおり、常にウキウキをした気持ちで作って食べているからなのだと思う。

いずれは尊敬する森茉莉先生と同等、あるいはそれを越える食道楽になってみたいものだ。

 

おいしい生活

引越しをして、冷蔵庫のない生活をしている。

それでもなんとかなっているのは冬だからだろう。

 

実家で暮らしている間は野菜を摂ることが難しくいつも体調不良であったが、

独立してからは自己裁量で食事に取り入れる事ができているので前より健康なくらいである。

 

味噌汁の具も好き好きに、ほうれん草と金時人参であるとか、きのこばかりだとか、新じゃがであるとか、その時安く手に入る物をどっさりと入れて具だくさんにして食べている。

 

お出汁もほんだしではなく、煮干粉やかつお粉とこんぶで取っている。

角の立たない丸みのある味噌汁になるので、ほっと息をつける優しい味だ。

また、煮干や鰹節を粉にしているので、味噌汁を飲むついでにカルシウムも取れて健康的である。

 

実家では炊飯器でお米を炊いていたが、引っ越してからは土鍋で炊いている。

米を研いでから30分程で炊ける上に米の甘みが引き立ち、塩むすびにして食べると心から幸福を感じる味になる。

こんなに美味しいのであればもっと早くやっておけばよかったと思う。

吹きこぼれてしまうのはちょっと困ったが、濡らした布巾でさっと拭けばよいので苦にならない。

美味しい物にはひと手間かかるのだから仕方がない。

 

まな板も前々から木の物を使いたいと思っていたので使っている。

包丁が板にあたる音が優しく、トントントンと気持ちがいい。

 

味だけでなく目や耳にもおいしい生活をすると身も心も健康になってよいものだ。

と最近になって分かり始めた。

 

シナモンロールのない日

 

朝、通勤途中に「シナモンロールが食べたいなあ」と思った。

 

 

通勤路にコンビニがあるので買おうと寄ったのだが、なかった。

朝早い時間であるし、品出しが終わってなかったのだろう。

仕事終わりに買えばいいかと思い、やめる。

 

 

仕事中はシナモンロールの事を考えていた。

クリームチーズフロスティングがたっぷりとのったものや、砂糖かけのもの、

円形のものや花巻のような形のもの。

シナモンロールへの思慕は募る。

 

 

そもそも今朝「シナモンロールを食べたいなあ」と思ったのは、

昨夜、群ようこさんの『かもめ食堂』を読んでいたからである。

かもめ食堂』を読むと毎回、シナモンロールとおにぎりが食べたくなってしまう。

 

 

終業時間になり、ルンルン気分でコンビニに寄ったがあらず。

百貨店に入っているパン屋さんを全て回ってみたが、あらず。

 

 

シナモンロールって「食べたい」と思った時に食べられないものなんだなあ。